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blog再開

Twitterを再開したのは、精神のリハビリのため。

blogのように長い文章を書くのがまだシンドイのと、何か非難されることに対してとても耐えられないから、
まずTwitterでtweetして、特に非難されることもなければ、後からtweetsをまとめて、一つのblog articleを作るつもりだった。

でも、結局tweetsをまとめたarticleはこれまでまったく作ってこなかった。

tweetsでさえも、最低でも1週間、長い場合は1ヶ月以上かけて文章を作っているので、
同じ内容のものをまた再構成するのは、気力がなくて精神的な負担が大きい、ということに気づいた。

でも色々調べたりして、かなり時間をかけて考えて作ったtweetsがほとんど誰にも読まれることなく消えていくのは、さすがに虚しい
(もちろん、実際は消えてはいないけど)。

そこで、方針を変えて、極力blogを書くことにした。

そもそもTwitterの使い方を間違えているのだ。

日本では最初Twitterは、マイクロblogとして紹介されてたから、いまだにその感覚から抜け出せない。
だから、Twitterなのに、どうしてもblogのような使い方をしてしまう。

TwitterがSMSの拡張サービスのようなものとして作られたということを知ったのは、かなり後になってから。

だから、Twitterはマイクロblogなのではなく、メッセージング・サービスだということがわかっても、
マイクロblogだという感覚が染み付いてしまっている
(Wikipediaには"microblogging service"として書かれてるんで、別に間違ってるわけではないんでしょうが)。

もちろん、tweetできるのは週に1度か2度の1時間のネットカフェでだし、
tweetの文章でさえも1週間から1ヶ月かけないと書けない今の精神状態では、
結局マイクロblogのような使い方しかできないのだけど。

ということで、これからはできるだけ、blogを書くことにした。
でも、非難コメントには精神的にまだ耐えられないので、コメント機能をOFFにした。

P.S.
最初からblog articlesを携帯メールでpostしてた人たちは、結構自然にTwitterに慣れることができたんだろうなあ。

たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約

"たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約"なるものがあって、日本も批准していて、"たばこの煙に晒されることからの保護に関するガイドライン"なるものもあることを初めて知った。

それなのに何でいまだに歩きタバコがこんなに多いの?

以下、"たばこの煙に晒されることからの保護に関するガイドライン"から抜粋。2010年2月までに行うことが求められているそうだ。

  • たばこ煙にさらされることについては安全なレベルというものはなく、二次喫煙の煙の毒性についての閾値などの概念は、科学的証拠と矛盾するため受け入れられない。
  • 換気、空気濾過、喫煙指定区域の使用(専用の換気装置の有無にかかわらず)など、100%の無煙環境以外のアプローチには効果がないことが繰り返し示されている。また、技術工学的アプローチではたばこ煙にさらされることから保護できない、という科学的あるいはその他の決定的な証拠が存在する。
  • たばこ煙にさらされることから人々を保護するための立法措置が必要である。自由意志による禁煙政策には効果がなく、十分な保護が与えられないことが繰り返し示されている。効果を上げるためには、法律は単純明快で、かつ強制力を持たなければならない。
  • 「受動喫煙」や「非自発的にたばこ煙にさらされること」などの用語は避けるべきである。
  • 「二次喫煙」(「SHS」と略されることもある)や「環境たばこ煙」(「ETS」と略されることもある)を使うことが望ましい
  • 「公共の場」の正確な定義は法域によって異なるが、法律では本用語をできる限り広義に定義することが重要である。使用する定義としては、所有権やアクセス権の有無にかかわらず、一般市民がアクセスできるすべての場所、または集団利用される場所とすべきである
  • 二次喫煙の煙にさらされることに安全なレベルというものはなく、締約国会議の FCTC/COP1(15) 決議で以前に認められたとおり、通風、空気の入れ替え、喫煙指定区域の適用などの技術工学的なアプローチでは、たばこ煙にさらされることから保護することができない
  • 継続的な情報キャンペーンを通じて、公衆やオピニオンリーダーに二次喫煙の煙にさらされることの危険性について理解を深めてもらうことは、政府機関が市民社会と提携して行うべき重要な役割

正直、ここまで厳しいタバコ規制が世界の常識になっているとは思っていなかった。
だって日本のマスコミの報道を見る限りでは、喫煙を規制しすぎることは人権侵害だとか、タバコに関係する農家や小売店を苦しめることになるとか、嫌煙家は神経質でヒステリックだとか、そういう論調の方が多いよね。

"たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約"が発行したのは2005年のようだけど、8年も経ってこの現状なのか。

千代田区が最初に路上喫煙を規制する条例を制定したときに、サンデープロジェクトで感情的に反論した識者がいた。
その人は他の話題については理路整然と語っていのに、この話題になったとたんに、突然感情的に反論し始めて、そのギャップに愕然とした記憶がある。

BluesのLyrics

最近、Bluesのことを実はほとんど知らなかったことを思い知らされた。

これまでBluesのLyricsの内容を知ろうとしなかった。
Bluesってのは"Strange Fruit"のようなdeepなことを歌ってるものだと思っていた。

だからClaptonがRobert Johnsonをcoverしたalbumの和訳歌詞を見たとき、Sexのことばっかり歌っていてRobert Johnsonなんてダメだ、なんて思ってたら、そういう内容の歌はBluesでは普通のことだということを最近知った。

Amiri Barakaの"Blues People"やRobert Palmerの"Deep Blues"を読むと、これまでの私のmusicの聴き方は根本的に間違っていたように感じてしまう。
musicの聴き方どころか、人生観そのものが間違っていたんじゃないかとさえ。


世界遺産 栂尾山 高山寺

高山寺が世界文化遺産に登録されてたことを知らなかった。それとも単に忘れていただけ?

登録されたのが1994年だから、私が卒論のために2回訪れた1993年にはすでに申請中だったわけなんだけど、そういう記憶がまったくない。

当時は、紅葉の観光シーズンであっても、高山寺まで行く人は少なかったと思うんだけど。皆、神護寺だけを見て満足してたから。
今はそうでもないのかな?

高山寺が世界文化遺産に申請中だったのなら、和歌山の有田地方でももっと明恵上人に関する盛り上がりがあってもよさそうなもんだけど、1993年に有田地方を訪れた時は、地元のおじいさんもおばさんも、タクシー会社の営業所にいたドライバー達も、誰も明恵上人のことを知らなかった。

当時、有田地方を訪れた時は、ちょうどみかんの収穫シーズンだったんだけど、地元の子供たちが大量に落ちているみかんを投げ合って遊んでいるのを見て、さすが有田だな、と思った。
「トンネルを抜けたら雪国」ならぬ、「トンネルを抜けたらみかん畑」って感じで、電車から見える山がみかん山に一気に変わったのは壮観だった。

5歳、6歳の思い出

5歳から6歳の2年間は、種子島の南種子町
この時初めて同い年の友達と遊ぶ。

6歳の時、1年間だけ幼稚園に通う。
でも何で1年間だけ通うことになったんだろう。
母親は専業主婦であることに変わりなかったし、何か大きな家庭の変化があったわけではないのに。
たった1年間のために、幼稚園の制服やカバンを買ったのはもったいない。
小学生になる前に、1年間だけでも集団生活をさせておきたかったんだろう。

幼稚園は父の職場の近くだったので、行きは車で送ってもらっていた。
帰りは、一人で歩いて帰る。
5,6人で一緒に帰った時の記憶が強く残っているので、普段は一人で帰っていたんだと思う。

その幼稚園では半分以上の園児が親に迎えに来てもらっていた。
別に親に迎えに来てもらえなくても平気だった。
でも、ただ一度だけ、寂しかったのか理由はわからないけど、幼稚園に着いてから、すぐに家まで走って戻り、母親に"今日だけは迎えに来て"とお願いして、また幼稚園に走って戻って行った。

5歳の時も兄や兄の友達と遊んでいたんだけど、さすがに4歳の時よりは減ったと思う。
この時よく遊んだのはコマ回し。
木でできたコマで、上から地面に叩きつけるようにして回すコマ。

初めて外国人に話しかけられる。
一人でよく遊びに行っていた沼からの帰りに、外国人にロケット基地にはどう行けばいいか道を聞かれた。
どう答えたかまったく覚えてない。そもそも何でロケット基地に行く道を聞かれたのがわかったのかも覚えていない。多分その外国人は日本語で質問したんだろう。

南種子町に住んでいた2年間で、ロケットの打ち上げを見に行ったのは1回だけ。

結構長い距離を母親と2人で散歩した記憶が残っているんだけど、その時とても幸せだったんだろう。この散歩の時に観た椿の花が、大好きな花の一つになっている。

4歳の思い出

記憶に残っているのは、薩摩郡東郷町に住んでいた4歳のときから。

覚えている一番古い記憶は、まだ3歳の頃だったかもしれない。
昼寝していて目が覚めたら、母親が健康診断のため500mほど離れた役場に行っていて家にいなかった。
それで泣きながら、役場まで走って行った。
なぜ役場にいるとわかったのかまったく覚えてないんだけど、それよりもずっと不思議だったのは泣きながら走っていったこと。
なぜなら、4歳の時のそれ以外の記憶では、一人で家で留守番していても全然平気だったから。
それが、このarticleを書いている時に、やっとわかったような気がする。
この前のarticleに書いたように、私は3歳の時に1ヶ月だけ保育園に預けられていた。
つまり母親がまたいなくなるかもしれない、という恐怖がまだ残っていたからなんだろう。

当時は、兄や兄の友達と一緒に遊んでいた。
今考えると、よく4歳も離れた弟と一緒に遊んでくれていたものと感謝。
小学2年生の時に、4歳の弟が一緒についてくるってのは、自分だったら嫌だな。

この時、よく遊んだのは"メンコ"。
メンコといっても、丸いメンコじゃなくて、カード。
当時は駄菓子屋で10円(5円だったかな?)で2枚入りのカードを売っていた。
もちろん、どんな写真かは買ってから袋を開けないと見ることはできない。
そしてカードの後ろに当たりの印があったら、そのカード用のアルバムをもらえるというやつ。
当時は、"ゴジラ"シリーズのカードが多かったと思う。
あとプロ野球選手や"ウルトラマンレオ"のカード。
このカードを灯油に浸して乾かして、メンコとして遊ぶ。

兄が小学校に行っている間は、家で、兄が買ってもらっていた小学館の"小学2年生"や学研の"学習"を読んだり、その付録で遊んだりしていた。
だから小学2年で習うことは4歳の時には知っていた。
もちろん、九九も4歳の時に覚えた。

4歳の時に見たTVで特に強く印象に残っているのは、"ウルトラマンレオ"、"ゴレンジャー"、"アクマイザー3"

"レオ"は最初のエピソードで、"宇宙人が夜に通り魔となって人を殺す"というのがあって、主人公がお世話になっている家の父親が殺されてしまう。
これを見てから、父が仕事から帰るのが夜遅くなると心配になったのを覚えている。

あと"アクマイザー3"の女のアクマ族"ダルニア"が怖かった。
当時住んでいた家では、トイレに行くには外に出ないといけなかったんだけど、夜トイレに行くとき、庭に"ダルニア"がいるんじゃないかと怖かった。

父が仕事で夜遅くなるときは、夜に兄と2人で父の職場に弁当を届けに行っていた。兄だけが頼まれたのに私が勝手についていっただけかな?

近くを流れる川内川が氾濫して、床下浸水。
42年生きてきて、運がいいのか、洪水の被害にあったのは、この時の1回だけ。

オートバイにひかれる。
スピードを落としてくれていたので、頭を打ったのと膝をすりむいただけで、入院することもなかった。
運がいいのか、意識を失ったのは、42年生きてきて、この時の1回だけ。
病院から帰ってきたら、チョコボールの"おもちゃのカンヅメ"がちょうど届いていた。

高所恐怖症はこの頃から。
国鉄の東郷駅に行くには、川内川にかかっている橋を渡らないといけなかったのだけど、それがものすごく怖かった。

散歩で母親とレンゲソウの花がいっぱい咲いているところで遊んだ。
これがよっぽど楽しかっただろう。この時からレンゲソウが一番好きな花の一つになる。

My Memories前史

これから、小学校に入学する前までの思い出を3回に分けて書く。
もちろん他人が読んで面白いものじゃない。万が一のために記録しておきたいため。
小学校の6年間は暗黒時代なので記録しない。小学校に入学する前が一番幸せだった。

まずは、記憶に残っていない時のこと。

3歳までの記憶はほとんどない。

生まれたのは曽於郡輝北町に住んでいたとき。
ただ実際に生まれたのは、隣の鹿屋市の病院。

1歳まで輝北町に住んでいた。

もちろん輝北町時代の記憶なんてない。

それだけでなく、どんな乳児だったかもまったくわからない。
なぜなら6歳になるまでの写真が一枚も残っていないから。

両親に聞くと、「あんまりかわいくて、親戚にあげてたら、みんななくなってしまった」、とのこと。
とてもじゃないが、信じられない。
4歳上の兄の写真は乳児の時からずっとたくさん残っているのに。

一応、一枚だけ残っている。
といっても、兄を写した写真の奥にベッドがあって、そこに赤ん坊が寝ているというもの。顔は見えないので私だという確認はできない。

しかも私がどういう乳児だったかという話自体も両親から一度も教えられたことがない。

だから、実際は自分は、両親の子供じゃなくて捨て子だったんじゃないか、かなり長い間真剣に思っていた。

叔父叔母にもそのことを聞いたことがあるけど、同じような答え。
だからといって、叔父叔母たちが"もらった"という私の写真を見せてくれたことは一度もない。

この話題になると、叔父叔母たちは、私の顔の輪郭はどう見ても父親とそっくりだから、父親の子供以外考えられないと、強く主張する。
その必死さが、子供の私の疑惑をさらに強める結果となっていた。

まあさすがに今は、捨て子だったなんて思っていない。
写真がないのは、よくある最初の子供には色々手をかけるけど、2番目の子供にはそれほど手をかけない、というやつだったんだろう。

2歳から4歳までの3年間は、薩摩郡東郷町。

記憶に残っているのは、この東郷時代の4歳のときから。

ところで、私は6歳の時に1年間だけ幼稚園に通っていた。そうずーーっと思ってきた。
でも実は3歳の時、1ヶ月だけ保育園に預けられていたということを、大人になってから叔母に教えられて初めて知った。