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孝謙❨称徳❩女帝と道鏡

孝謙❨称徳❩女帝、718年生まれ。

道鏡、生年は不確かながら700年生まれとされる。

二人が初めて出会ったのは、761年。

孝謙上皇、43歳、道鏡、61歳の頃である。

当時の43歳は、今の60代くらいに考えた方がいい。
61歳に至っては、もう長老だ。

二人が愛欲関係にあったため、道鏡が異例の出世をし、その上、道鏡に帝位を譲ろうとしたという説がある。

馬鹿、というかこれほど不敬なことはない😡

今の皇室は、称徳天皇の直系の子孫ではないから、こういうことを言ってもいいと思ってるのだろう。

この年齢の二人が、愛欲関係に落ち入ると考える人の頭がどうかしている😡

道鏡称徳天皇の側にいたのは、もういつ死んでもおかしくない称徳天皇の治療をいつでもできるようにするためだろう。

僧には病気を治す力があると考えられていた時代である。

孝謙上皇は、父の聖武天皇推し進めた仏教政策を担える僧侶を探していた。
そこで孝謙上皇の師であり、心の拠り所としていた吉備真備道鏡を推薦したのだろう。

期待通りに、道鏡は仏教政策を推し進め、僧侶の力が強くなり、桓武天皇が遷都しなければならないほどになった。

称徳天皇が亡くなった後、道鏡が左遷されたのは、僧侶の権限増大を防ぐためだろう。
つまり聖武天皇以来続いていた仏教政策を止めるためだ。

何の落ち度もない道鏡を左遷したことに対する弁明として、道鏡皇位をうかがったという記述を続日本紀に記したのだろう。

本当に皇位を伺っていたのなら、一族共々処刑されているはずだ。

宇佐八幡宮神託事件を、称徳天皇道鏡皇位を継がせようとしていた根拠とする学者もいるが、道鏡の弟が奏上したという託宣の内容は、そもそも皇位に触れていたのか?

その後、和気清麻呂が奏上した託宣称徳天皇が激怒したのは、自分が道鏡皇位を継がせようと思っていた臣に対する怒りではないのか?
不敬な目で自分を見て、自分のことを信用していない臣に対する怒り。

過剰と思われる処罰も、自分が道鏡を帝位につかせると思っている臣達への見せしめ、と思えば納得できる。

それにしても、歴史学者は、都合よく続日本紀を解釈しすぎる。
書かれていることはすべてが事実ではないことは多くの歴史学者が認めるところだ。
なのに道鏡に関することだけはすべてが事実とする。

そもそも称徳天皇道鏡に帝位を継がせようと考えていたのが事実なら、吉備真備が諌めているはずだ。

さらに、聖武天皇が政治を投げ出した後の実質的な最高権力者である光明皇后が、死ぬまで皇位につかなかったことを間近で見てきた称徳天皇が、皇族以外を帝位につけることなど、決して考えることはない!

とにかく、称徳天皇道鏡の関係をもって、女帝を否定することは出来ない!